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夜がどれほど暗くても*中山七里

  • 2020/07/09(木) 18:34:18


人間の不幸に底はないのか?水に落ちた犬は叩かれ続けるのか?息子の殺人疑惑で崩れ去った幸せ―。スキャンダルとネットの噂に奪われた家族。だが男は諦めなかった―。


息子が殺人を犯し、しかもその場で命を絶ったと、警察から知らされた、大手出版社の雑誌の副編集長・志賀の目線で描かれた物語である。息子・健輔は、大学のゼミの教授の家に押しかけ、教授とその夫を殺したあげく自殺したという。仕事にかまけて、ひとり息子と向き合わずに来た志賀は、健輔のことを何も知らないことに愕然とする。妻の鞠子との関係も壊れ、その後の志賀がどう行動するのか興味深かったが、まず不思議に思ったのは、健輔の犯行を思いのほかあっさりと認めてしまったように見えることである。いくら最近の彼のことを知らないとはいえ、そこまでの状況に陥った理由を突き詰め、息子の無実の可能性を探ろうとしなかったのが、いささか腑に落ちないところではある。そこを於けば、犯罪加害者家族に向けられる世間のバッシングや、ひとり残された被害者の中学生の娘のその後など、興味深く惹きつけられる要素は多かった。最終的にはよかったと言えるのかもしれないが、失った命が帰らない限り、後味の悪さは残る一冊ではある。

合唱 岬洋介の帰還*中山七里

  • 2020/06/20(土) 19:06:26


幼稚園で幼児らを惨殺した直後、自らに覚醒剤を注射した“平成最悪の凶悪犯”仙街不比等。彼の担当検事になった天生は、刑法第39条によって仙街に無罪判決が下ることを恐れ、検事調べで仙街の殺意が立証できないかと苦慮する。しかし、取り調べ中に突如意識を失ってしまい、目を覚ましたとき、目の前には仙街の銃殺死体があった。指紋や硝煙反応が検出され、身に覚えのない殺害容疑で逮捕されてしまう天生。そんな彼を救うため、あの男が帰還する―!!


誰が主人公になってもおかしくないようなキャスティングであり、実際に、読み始めてしばらくは、主役と思しき人物が何度か入れ替わるような展開になっている。さらに言えば、主題も、これかと思えば覆され、そう来たかと思わせておいて、さらに違う展開に持ち込まれるという、嬉しい裏切りが満載である。なにより、岬洋介が突然帰国したにもかかわらず、レコーダーに吹き込まれたたった一音しかピアノが出てこないのである。そして、そんなことさえ忘れさせられるほど、彼の活躍に目を惹かれ、惹きこまれるのである。御子柴も(普段とはいささか別の意味で)いい仕事をしてい、好感度アップである。贅沢な一冊である。

帝都地下迷宮*中山七里

  • 2020/06/16(火) 07:37:10


鉄道マニアの公務員、小日向はある日、趣味が高じて、廃駅となっている地下鉄銀座線萬世橋駅へと潜り込む。そこで思いがけず出会ったのは、地下空間で暮らす謎の集団。身柄を拘束された小日向に、彼らは政府の「ある事情」により、地下で生活していると明かす。その地下空間で起こる殺人事件。彼らを互いにマークする捜査一課と公安の対立も絡み、小日向は事件に巻き込まれていく。


突拍子もない設定ではあるが、政府の隠ぺい体質、事なかれ主義、身内第一主義等を考えると、ちょっぴり背筋が寒くなるところでもある。きわめてシリアスな舞台の中に、廃駅オタクの区役所職員が偶然紛れ込んだことで、一見穏やかだった水面にさざ波が立ち、次第に波紋が広がるように、物語がうごいていくのである。警察側の動きには、あまりスポットが当てられていないので、切迫感、緊迫感がやや薄れた感があり、だからこそ、サクサク読める印象でもある。さまざまな問題を考えさせられる一冊でもあった。

小説 「安楽死特区」*長尾和弘

  • 2020/06/06(土) 16:48:05


~日々、死と向き合っている医師だから書けた、現代人のエゴイズム、そして愛と情~

まだここだけの話、ということで“安楽死特区”構想についてざっくり説明しますね。国家は、安楽死法案を通そうと目論んでますよ。なぜなら、社会保障費で国が潰れそうだからです。しかし国民皆保険はどうしても維持したい。それならば、長生きしたくない人に早く死んでもらったほうがいい、そう考えています。ベストセラー医師による、初の本格医療小説。


日進月歩する医療の進歩と超高齢化社会という、ありがたいのかそうでないのか判断に迷う現実に切り込んでいて興味深い。ひと昔前は、当たり前のように施されてきた延命治療であるが、それを選ばない自由は保障されつつある現代ではある。だが本作には、2025年という、間近に迫った未来に起こり得る現実が描かれていて、目前に迫っているだけに切迫感がある。開業医の鳥居が言うように、枯れるようにして逝けるのがいちばんだろうが、なかなかそうはいかない現実で、安楽死という選択がどう扱われるのか、わが身のこととなった時にどうするのか、さまざま考えさせられる。医療現場のことはともかく、政府の目論見があまりにも身勝手で、呆れかえる。改めて、ぴんぴんころりで逝きたいと思わされた一冊である。

サマー・キャンプ*長野まゆみ

  • 2020/05/13(水) 16:30:51


「愛情など、断じて求めない、はずだった」 体外受精で生まれた温は出生の秘密を自らの手で明かそうと決意するのだが…。近未来を舞台に、人間が種として背負うべき未来への責任を問う書き下ろし長編小説。


近未来の物語だが、人間が自らの遺伝子を操作することに高いレベルで熟達すれば、現実問題としてこんな状況が決して珍しいことではない世の中になるのかもしれない、と戦慄さえ覚える。自然な営みや、本能としての愛の探求。そんなものが、懐かしい過去の話になってしまう日が来るかもしれないというのは、恐ろしさもあり、寂しさもある。そして、彼らが抱える葛藤は、決して彼ら自身が望んだことではないのであり、その理不尽さには胸が痛む。もがきながら懸命に自分を探して生きている彼らが、愛おしくもあり哀しくもある。この世界に幸福はあるのだろうか、と考えさせられる一冊でもある。

リレキショ*中村航

  • 2020/05/12(火) 07:48:13


大切なのは意志と勇気。それだけでね、大抵のことは上手くいくのよ―“姉さん”に拾われて“半沢良”になった僕。ある日届いた一通の招待状をきっかけに、いつもと少しだけ違う世界が、ひっそりと動き始める。深夜のガソリンスタンドが世界を照らし出す、都会の青春ファンタジー。第三九回文藝賞受賞作。


半沢良は誰なのか。読み進んでいけば謎が解けるのかと思ったが、そういうわけでもなく、物語は、半沢良を日々創り上げる過程が淡々と描かれている。そしてその結果が「リレキショ」に書き加えられ、さらに半沢良になっていく。名前や生年月日、生い立ちやさまざまなことは、生きていく上での必須条件ではなく、いまをどう生き、周りとどう関係性を築いていくかが大切なのだと思わされる。半沢良が本当は誰なのか、とてもとても知りたくなるが、それはたぶん知らぬが花でもあるのだろう。遠くて近く、とても寂しくてあたたかい。胸の奥がきゅんとする一冊だった。

第一級殺人弁護*中嶋博行

  • 2020/05/09(土) 18:20:42


自白した被疑者がなぜ無罪に!?救済されるべき被害者に法はいったい何ができるのだろうか。金融犯罪、中国系マフィア、そして快楽殺人。イリーガルに挑む刑事当番弁護士・京森英二が直面した事件は、日本の社会病理と深く係わっていた。現役弁護士ならではの精密な筆致で描く傑作リーガル・サスペンス。


なんだかやる気のなさそうな、おざなりな感じの冴えない弁護士・京森英二が主人公。当番弁護を何とか免れようとするが、いつも捕まってしまい、無難に切り上げようとするも、ちょっとした違和感や、些細な引っ掛かりを放っておけず、首を突っ込むうちに、事件の真相を暴き出してしまう。結果的に見ると見事なのだが、優秀という印象にはどうにも程遠い。なぜかと言えば、物語の最後に、何かしら間抜けな結果が待ち構えていたりするのである。だがそれが、人間臭くて魅力にもなっているのかもしれない。憎めない京森なのである。次第に京森に期待しはじめてしまう一冊である。

見えない貌*夏木静子

  • 2020/05/06(水) 16:31:27


最愛の娘が行方不明の末、惨殺死体で発見された!母親の朔子は、携帯メールから娘の孤独を知り、愕然とする。そこで彼女は、娘の携帯に残された「メル友に会いに行く」という言葉から、ある男に辿り着くが…。思いもかけぬ、第二の事件が起きる。わが子を思う究極の愛とは!?―著者が綿密な取材と法廷小説の手法を駆使して、読者を驚愕の真相へと導く推理巨編。


初出は2004年である。スマホなどまだなく、二つ折りの携帯の小さな画面で、パケ代を気にしながら、初めて体験するネットの世界を興味津々で泳ぎ回っているころである。日常に小さな鬱屈を抱いている人々が、小さな画面の中で見知らぬ誰かと出会い、一時の夢を見ようとしたばかりに、いざ現実に引き戻されると、痛ましい事件に発展してしまう。あの時代のネットのわくわく感と危うさが絶妙に描かれていると思う。そして、二組の親子が大きなうねりに巻き込まれている。母と娘、父と息子。わが子を守ろうとする親の思いの執着があまりに強すぎたために、第一の事件とは別の次元に進んでいく。前段は、殺された晴菜の母・朔子の目線で、後段は、加害者弁護士のタマミの視点で物語を見ることになる。どちらにしろ、救いはどこにもない。目の前に示されたものから推測されることと、事実との乖離。一度思い込まされたものを覆すことの難しさ。さまざまなことを考えさせられる一冊でもあった。

騒がしい楽園*中山七里

  • 2020/03/17(火) 19:37:07


見えない魔の手から子どもたちを守ることができるのか?埼玉県の片田舎から都内の幼稚園に赴任してきた幼稚園教諭・神尾舞子。待機児童問題、騒音クレーマー、親同士の確執…様々な問題を抱える中、幼稚園の生き物が何者かに殺される事件が立て続けに発生する。やがて事態は最悪の方向へ―。12ヶ月連続刊行企画第1弾!


都内の幼稚園が舞台。モンスターペアレントはここにもいるし、田舎の幼稚園よりも周辺住民からの風当たりは強い。母親同士の上下関係や、子ども同士の関係性の微妙さ、加えて待機児童問題など、配慮しなければならないことは様々あるが、それどころではない忌まわしい問題が起こるのである。警察はなかなか本腰を入れてくれないように見えるが、事態はどんどんエスカレートし、とうとう園児にまで被害が及ぶ。ここで警察もやっと本格的に捜査を始める。園長の事なかれ主義に憤り、園外の出来事にどこまで責任を負えばいいのかに悩み、子どもたちの受けるショックに胸が痛み、大人の身勝手に怒りを覚える。何より真犯人の自分のことしか考えない幼さに愕然とさせられる。いろんな感情が渦巻く一冊だった。

人面瘡探偵*中山七里

  • 2020/01/17(金) 07:45:28



相続鑑定士の三津木六兵の右肩には、人面瘡が寄生している。六兵は頭脳明晰な彼を“ジンさん”と名付け、何でも相談して生きてきた。信州随一の山林王である本城家の当主が亡くなり、六兵は遺産鑑定のため現地に派遣される。二束三文だと思われていた山林に価値があると判明した途端、色めき立つ一族。まもなく長男が蔵で、次男が水車小屋で、と相続人が次々に不審死を遂げていく。これは遺産の総取りを目論む者の犯行なのか?ジンさんの指示を受けながら事件を追う六兵がたどり着いたのは、本城家の忌まわしい歴史と因習深い土地の秘密だった。限界集落を舞台に人間の欲と家族の闇をあぶり出す圧巻のミステリー。


設定はとんでもないが、面白い探偵コンビである。物語のテイストは、まさに横溝ワールドといったもので、都会の常識が全く当てはまらない時代錯誤的な因習が大手を振っている地域で起こった、一族の忌まわしい関係性にまつわる事件である。本作は、いわば探偵コンビの自己紹介的な印象で、次作以降本格的に面白さが増していくのではないかと察せられる。愉しみなシリーズになりそうな一冊である。

死にゆく者の祈り*中山七里

  • 2019/11/30(土) 19:11:32



囚人に仏道を説く教誨師の顕真。ある日、拘置所で一人の死刑囚が目に留まる。それは、大学時代に顕真を雪山の遭難事故から救った、無二の親友・関根だった。人格者として知られていた友は、なぜ見ず知らずのカップルを殺めたのか。裁判記録に浮かび上がる不可解な証言をもとに、担当刑事と遺族に聞き込みをはじめた顕真。一方、友として、教誨師として、自分にできることとは何か。答えの見出せぬまま、再び関根と対峙することとなる。想像を絶する、事件の真相とは。そして、死刑執行直前、顕真が下した決断は―。人間の「業」を徹底的に描く、渾身のミステリ長編!


重い題材の物語である。と同時に、熱い思いの物語でもある。教誨師として、僧侶として、友人として、そして一人の人間として、顕真の衝動と行動は、時として規範を外れてはいても、人の道は踏み外していないと思う。かつて命を助けられた友人の、まさに命の瀬戸際で、その真実を明らかにできたことは、奇跡と言っても言い過ぎではないが、さまざまなめぐりあわせと、顕真の熱意によって成し得たことであるのは間違いない。いろいろ考えさせられる一冊だった。

45° ここだけの話*長野まゆみ

  • 2019/09/05(木) 16:54:06

45° ここだけの話 (講談社文庫)
長野 まゆみ
講談社 (2019-08-09)
売り上げランキング: 124,309

カフェで、ファストフードで、教室で、ケアホームで、一見普通の人物が語りはじめる不可思議な物語。一卵性双生児、夢の暗示、記憶の改竄、自殺志願者など、ちりばめられた不穏なモチーフが導く衝撃の結末。読んでいるうちに物語に取り込まれ、世界は曖昧で確かなことなど何もないと気づかされる戦慄の9篇。


どれもが一筋縄ではいかない物語である。激することもなく、淡々と語られていて、概してその内容もその辺によくありそうなことだったりもするのだが、なにかがほんの僅かずつ不穏で、現実に生きている世界とは角度がずれている感覚なのである。そうしてふと気づいてみれば、まるで普通でもありがちでもない、不可思議な世界に迷い込んでいるのである。劇的な転換はなくても、ごく些細な認識のずれが、進んだ先では大きな亀裂になっていることにあとから気づかされるような心地である。そしてそれがなんとも心地好い一冊でもあった。

夢見る帝国図書館*中島京子

  • 2019/07/27(土) 16:49:41

夢見る帝国図書館
夢見る帝国図書館
posted with amazlet at 19.07.27
中島 京子
文藝春秋
売り上げランキング: 2,415

「図書館が主人公の小説を書いてみるっていうのはどう?」
作家の〈わたし〉は年上の友人・喜和子さんにそう提案され、帝国図書館の歴史をひもとく小説を書き始める。もし、図書館に心があったなら――資金難に悩まされながら必至に蔵書を増やし守ろうとする司書たち(のちに永井荷風の父となる久一郎もその一人)の悪戦苦闘を、読書に通ってくる樋口一葉の可憐な佇まいを、友との決別の場に図書館を選んだ宮沢賢治の哀しみを、関東大震災を、避けがたく迫ってくる戦争の気配を、どう見守ってきたのか。
日本で最初の図書館をめぐるエピソードを綴るいっぽう、わたしは、敗戦直後に上野で子供時代を過ごし「図書館に住んでるみたいなもんだったんだから」と言う喜和子さんの人生に隠された秘密をたどってゆくことになる。
喜和子さんの「元愛人」だという怒りっぽくて涙もろい大学教授や、下宿人だった元藝大生、行きつけだった古本屋などと共に思い出を語り合い、喜和子さんが少女の頃に一度だけ読んで探していたという幻の絵本「としょかんのこじ」を探すうち、帝国図書館と喜和子さんの物語はわたしの中で分かち難く結びついていく……。
知的好奇心とユーモアと、何より本への愛情にあふれる、すべての本好きに贈る物語!


混乱と混沌の時代背景、上野という場所、図書館や動物園というなくても生死にかかわらない施設にスポットが当てられ、さらに、混迷の時代に翻弄されるように、幼い時代を過ごし、いままた上野で人生の終盤を過ごしている喜和子さんという一人の女性とその思いを知ろうとすることで見えてくる、さまざまな誤解や真実が切なくもありやり切れなくもある。それでも、みんなが喜和子さんのことを考え、心を過去にさまよわせたり、遠い地に思いを馳せたりすることで、新たに生まれた人間関係もあり、最後には、喜和子さんの望む形に少しは近づけたのかもしれない、とも思わされるのである。図書館というものを通して、ひとりの人の一生の複雑さをも考えさせられる一冊だったような気がする。

笑え、シャイロック*中山七里

  • 2019/07/12(金) 16:42:13

笑え、シャイロック (角川書店単行本)
KADOKAWA (2019-05-31)
売り上げランキング: 84,881

帝都第一銀行に入行し、都内の大型店舗に配属が決まった結城。そこはリーマン・ショック後に焦げついた債権の取り立て部署、上司となるのは伝説の債権回収マンとして悪名高い山賀だった。百戦錬磨の山賀の背中を見ながら、地上げ屋、新興宗教、ベンチャー企業など、回収不可能とされた案件に次々と着手せざるを得ない結城。そんなある日、山賀が刺殺体で見つかる。どうやら帝都第一銀行の闇を山賀が握っていたようなのだ―。“どんでん返しの帝王”が放つ、ノンストップ・金融ミステリー!


はらはらどきどきしながら最後はすっと胸がすくストーリーである。債権回収マンの結城がどんな手を打ち出してくるかに、とても興味を惹かれ、毎回それがとんでもないものなので、債務者の度肝を抜きつつ共感も呼んでうまくいってしまうという、お定まりのような展開ではあるものの、それがかえって心地よくもある。ただ、残念なのは、元祖シャイロックの山賀が、早い段階で消えてしまったことである。彼の元祖たるゆえんをもっとじっくり味わいたかった。とはいえ、過酷で非情ながら、万事うまくいってしまう展開を愉しめる一冊である。

椿宿の辺りに*梨木香歩

  • 2019/06/29(土) 16:48:39

椿宿の辺りに
椿宿の辺りに
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梨木 香歩
朝日新聞出版
売り上げランキング: 1,090

深遠でコミカル、重くて軽快。
著者五年ぶりの傑作長編小説。

自然、人間の体、こころの入り組んだ痛みは
家の治水、三十肩、鬱と絡み合い、主人公を彷徨えるツボ・椿宿へと導く。

皮膚科学研究員の佐田山幸彦は三十肩と鬱で、従妹の海子は階段から落ち、ともに痛みで難儀している。なぜ自分たちだけこんな目に遭うのか。
外祖母・早百合の夢枕に立った祖父から、「稲荷に油揚げを……」の伝言を託され、山幸彦は、鍼灸師のふたごの片われを伴い、祖先の地である椿宿へと向かう。
屋敷の中庭には稲荷の祠、屋根裏には曽祖父の書きつけ「f植物園の巣穴に入りて」、
明治以来四世代にわたって佐田家が住まいした屋敷には、かつて藩主の兄弟葛藤による惨劇もあった。
『古事記』の海幸山幸物語に3人目の宙幸彦が加わり、事態は神話の深層へと展開していく。
歯痛から始まった『f植物園の巣穴』の姉妹編。


土地に、家に、一族の一員に、連綿と流れ続ける気脈のようなものがあり、それは古の神代のころに始まったもので、言ってみれば、源流から流れ出した川のように、代々受け継がれていくものなのかもしれない。宿命と呼んでも間違いではないだろう。いまここにある自分の身体の痛みさえ、昔々の何事かが差し障っているものかもしれず、大元を解きほぐさないことには、如何ともしがたい。山幸彦という曰くありそうな名前を授けられた佐田山幸彦のルーツを探る物語でもあるが、読者は丸ごとその世界観に呑み込まれ、視えないものまで見えてきそうな心持ちになってくる。痛みの治療の旅であり、一族の果たすべき何かを探す旅でもあり、いまある自分の存在を知る旅でもあり、時間を超えた旅でもあるように思われる。不思議な世界にどっぷり浸かるような一冊だった。